第三章:4月

〜おふくろの味 探訪記〜

==================================

少年は、少し背を丸めて夕暮れの路を歩いていた。
その影は、彼を先導するかのようにまっすぐ前に伸びている。

うつむき加減に歩くその顔には、青黒いアザができていた。
片方の鼻の穴には、血のにじんだティッシュが押し込まれている。
誰が見ても、殴られたのは明らかだった。



年の頃は、まだ3・4歳かそのくらいだろうか。
もう一方の鼻の穴からは、洟が垂れている。
時おりそれをすすり上げながら、少年は黙々と歩いていた。

洟は垂らしても、涙はこぼさない。
少なくとも、家に帰るまでは泣かない。

そんな意志を腫れ上がった顔に浮かべながら、少年はひたすら路を歩いた。

==================================


「おめでとうございますー!」

配達員のノーム(地の精)は、やけに高い声でそう言うと大きな荷物を玄関先に下ろした。
嫌味なほど過剰にラッピングされた、何かの詰め合わせらしい。

「ああ…どうもありがとう。」

ドアが開き、家人と思しき中年の男性が気のない声で応対する。
何となく、もううんざりといった口調だった。

「そっちの脇に置いといて。」

指差した先は、駐車スペースらしかった。
そこには、同じような大きな包みが乱雑に積み上げられている。
荷札に書かれた言語もさまざまで、世界中から送られてきているのが分かった。

「へぇー。さすがですね。こんなにお祝いが来てるんですかぁ。」

受け取りをしまい込みながら、青い顔のノームはその包みの山を見渡した。
帰る素振りも見せず、ますます甲高い声を上げる。

「やっぱり、選ばれたご家庭は違いますねえ。あやかりたいくらいですよ。あたしなんざ…」

「用が済んだのなら早く帰ってくれないか?」

どこか卑屈なその言葉を遮り、男性はノームの肩を掴んで乱暴に外へ押し出した。
そのまま、その目の前で音高くドアを閉める。

閉め出される格好になったノームは、口もとを曲げてフンとせせら笑った。

「…へっ。いい気なもんだぜ。調子付きやがってよ。何様のつもりだ?」

毒づいて振り返ったそのギョロ目が、ふと小さな影を捉える。
入口の階段の手前で所在なげに立っているその少年は、この家の子だ。
どうやら、自分が去るのを待っているらしい。

再びフンと鼻を鳴らしたノームは、ゆっくりと階段を下りた。
脇にどいて道をあけた少年に冷たい一瞥を向け、そのまま歩を進める。

階段を上がろうと、少年が向き直った時。
やおら振り返ったノームは、その小さな背を思い切り足蹴にした。
不意打ちを喰らった少年は、勢いよく倒れて思い切り階段に鼻をぶつける。

「おっと。気をつけろよ。」

小馬鹿にするような口調で言い捨てたノームは、口笛を吹きながら歩き去った。
ようやく起き上がった少年の鼻から、押し込まれていたティッシュがぽとりと落ちる。
同時に、止まっていた鼻血がまたポタポタと階段にこぼれた。

服の裾で鼻を拭った少年は、這いずるようにして階段を上がる。

入口のドアは、ほんのすぐそこにある。
しかし、うずくまった少年はもう動く事ができなかった。
正座するような格好で背を丸め、そのまま大粒の涙をこぼし始める。
声を殺して泣くその小さな背は、遠目にも分かるほど震えていた。

やがて、その声を聞いたのかドアが開いた。
先ほどの男性が血相を変えて走り出し、少年に駆け寄る。

「お、お帰りロミル!ごめんな、すぐに気付いてあげられなくって…。」

「ロミル」と呼ばれたその少年は、どうやら男性の子供らしかった。
抱き上げられたその広い胸に顔をすり付け、声を殺してひたすら泣き続ける。


男性は、かける言葉を探す代わりにロミルをしっかりと抱きしめていた。


==================================


チーンという大きな音が響き、キッチンに香ばしい匂いが満ちた。

じっとオーブンを見据えていたサングラス越しの眼差しが、ようやくフッと緩む。
同時に、口もとにどこか満足げな笑みが浮かんだ。

「よおし。…上々だな。」

そう呟いた眼差しの主―ルドルフが、大きな手袋をはめてオーブンを開ける。
注意深く中から取り出したのは、黄金色に焼きあがった大きなシフォンケーキだった。



自分の体ほどもあるその丸いケーキをテーブルに移し、ルドルフはもう一度満足そうに笑う。

「俺もたいしたもんだぜ。」

さして広くないキッチンの中は、むせ返るほどの甘い香りに満ち満ちていた。

透明のプラスチックカバーを、そっとケーキに被せた時。
勝手口のドアが勢いよく開き、小さな影が高い声を張り上げながら駆け込んできた。



「先生、薪割り終わりましたよ――!…って、あー、シフォンケーキだ!!」

歓声を上げる影―クローネは、ひくひくと鼻を蠢かせながらテーブルに駆け寄る。
巨大なケーキを目にしたその顔は、たちまち緩んだ。

「わー、おいしそー!!」

「やらねえぞ。」

ぴしゃりと言い放ち、ルドルフはケーキを守るかのようにクローネの前に立ち塞がった。

「これはお前んじゃねえ。よそに持っていく分なんだからな。」

「ええっ…そんな……。」

頭ごなしに言われたクローネが、大げさに口を尖らせる。

「せっかく、先生のお料理の中では唯一おいしいモノなのに…」

「うるせえ!米も研げねえやつがナマイキ言ってんじゃねえぞ!!」



「あ痛っ!!」

言うが早いか、ルドルフの鉄拳がクローネの頭を捉えた。

「痛たたたた……。な、殴らなくてもいいのに。」

つんのめったクローネは、帽子越しに殴られた頭をさする。

「ゴチャゴチャ言ってる間に、トレーニングのひとつでもやれよ。」

毒づきながら、ルドルフは焼き上がったばかりのシフォンケーキを手早く包み始めていた。

「…あれ、お出かけなんですか?」

「ああ。ちょっと挨拶しとかないとならねえとこがあってな。」

大きな包みをこしらえたルドルフは、向き直ってクローネの顔をじっと見据えた。

「…明日の午後には戻る。それまでに特訓メニューBを8セット、きっちりこなしとけよ。」

「ええっ、8セットも?」

「文句言うな。」

またも口を尖らせるクローネをじろりと睨んだルドルフの口調は、少し険しくなる。

「ちゃんと、後でチェックするからサボるなよ。飯は適当にあるもので食っとけ。」

「……は〜い。」

いかにもテンションの低そうな声で応えたクローネの脇を通り、ルドルフは玄関に向かう。

無言で見送るクローネの視線の先で。
キッチンを出ようとしていたルドルフは、面倒くさそうに振り向いた。

「…お前の分のケーキはそっちの戸棚に入ってるから。時間を見て食え。」

「はーい!!」

3オクターブほど高い声で応え、クローネは顔いっぱいに笑みを浮かべる。

「ありがと先生。行ってらっしゃい気をつけてー!」


あからさまな態度の豹変に大きなため息をつき、ルドルフは包みを抱え直して玄関に向かった。

==================================

「転んだだけじゃ、そんな怪我にはならないだろう?」

男性は、すぐ目の前に座るロミルに語りかけた。
どこかやつれた顔立ちの女性が、アザだらけの顔に軟膏を塗っている。
どうやら、ロミルの母親らしかった。

「…また、いじめられたんだな。」

父親の言葉に、ロミルはうつむいて首を振った。
かたく噛みしめた口もとに、かすかに血が滲んでいる。

「きちんと言いなさい。お父さんだって黙っているわけじゃ…」

「やめてデルジさん。」

黙って手当てをしていた母親が、視線を向けずに言葉を返した。

「お父さんまでこの子を問い詰めて、一体どうなるっていうんですか。」

母親の言葉には、苦渋の響きが満ちていた。

「…あたしたちが守ってやらないと、この子の居場所はどこにもなくなるんですよ。」

「……すまん、ロナ。」

詰問口調を恥じたらしい。
「デルジ」は、乱暴に顔を手で拭いながらうつむいた。

じっと黙っていたロミルの目に、新たな涙の粒が滲む。
重苦しい沈黙が、リビングに満ちていた。

しばしのち。

カランカランという、甲高い玄関のベルの音が勢いよく響いた。
かすかに肩をすくめたデルジが、眉をひそめて入口に向き直る。

今度は、どこの誰からだ。
誰が、どんな祝い文句と品をよこしてきた?

怯えたようにロミルを胸に抱く妻のロナをリビングに残し、デルジはゆっくり立ち上がった。
軽く唇を噛み、そのまま意を決して玄関ドアへと向かう。

「はい。」

ゆっくりと開いたドアの向こう。
そこには、誰もいなかった。

「……?」

怪訝そうに周囲を見回したデルジの目が、ふと下から伸びている茶色のツノを捉える。

それを目で追って見下ろした、すぐ先。
そこに、サングラスをかけた小さな顔があった。
あまりにも背が低いため、すぐには気付かなかったらしい。

大きな風呂敷包みを抱えた、人相の悪いトナカイが立っていた。

その視線に射すくめられたデルジが、一瞬言葉を発しそこねる。

「どうも、こんちは。お久し振…いや、初めまして。」

「は?…あ、いや。こんにちは…」

先に相手に挨拶されたデルジは、いささか口ごもった。

「ええっと……どちらさまでしたか?」

「俺…いや、私の名前は、ルドルフ。」

なおも怪訝そうな表情を崩さないデルジに、ルドルフは軽く頭を下げた。

「赤鼻のトナカイ、ルドルフです。お嬢さんを、お預かりしている者です。」


向き合う2人の間を、小さなタンポポの種が吹き流れていった。

==================================

リビングに通されたルドルフは、少し大きすぎる椅子に掛けた。
対面には、家族3人が並んで座っている。

どことなく固い表情のデルジ。
そして、うつむいたままのロミルをしっかり胸に抱いたロナ。

その視線はかすかに暗く、そして尖っていた。

「…じゃあ、あなたがサンタ翁のパートナーをなさっているルドルフさんですか。」

「そうです。まあ、腐れ縁ってやつでして…。」

軽い口調で答えたルドルフは、少し伸び上がるようにして出されたカップを手に取る。
うまそうにコーヒーをすするその顔に、ロナの視線がじっと注がれていた。

「それで…」

気まずい沈黙を和らげようとするかのように、デルジは声を少し高くする。

「うちの子は…クローネは元気ですか?」

「もちろん。いたって元気にしてます。」

即答したルドルフは、飲み干したコーヒーのカップをそっと置いた。

「ハナタレがなおったと思ったら、今度はあれやこれやと口ごたえが多くなってきて。
痛いの重いの疲れたのと、事あるごとに歯向かってくるんでちょっと参ってますよ。」

「それは……」

返答に窮したデルジは、思わず傍らの妻に視線を移した。
予想に違わず、ロナは大きく目を見開いてルドルフを睨みつけている。
その気持ちは手にとるようにわかった。

あまりにも遠慮のないルドルフの言葉には、彼自身も少し腹が立った。

しかし、彼の語る娘の様子に驚かされたのも事実だ。

クローネは、とにかく引っ込み思案の泣き虫だった。
うつむいたまま、自分たちの後を必死で追いかけてくる姿ばかりが記憶に残る。

しかし、弟のロミルがいじめられたりした時はなぜか飛んでいって助けようとする。
そして、いつも決まって弟よりも先に泣かされていた。

そんな子が、この人相も態度も悪いトナカイに口ごたえをするとは…

「あのう。」

「あ、はい?」

しばし考え込んでいたデルジは、ルドルフに声をかけられて我に返った。

「お代わりもらえます?今度は紅茶で…」

「ああ…すみません気付かなくて。」

カップを振るルドルフに、ロナがどこかきつい響きの声で答えた。
膝のロミルを椅子に下ろし、ゆっくりと立ち上がる。

「あ、それと…」

キッチンに向かおうとした背に、ルドルフの声がかけられた。

「皆さんの分も、よければ。」

「ええ。そのつもりです。」

皮肉めいた口調で応え、ロナは背を向けたまま流しへ向かった。
視線をデルジたちに戻したルドルフは、やがて持参した風呂敷包みを取り出す。

「これ、粗菓ですが。一緒に食べましょう。」

「は?」

毒気を抜かれたデルジの前で、ルドルフは手早く包みを解いた。
中から現れたのは、ひとかかえほどもある大きなシフォンケーキだった。

「…ケーキだ……。」

ずっと黙っていたロミルが、初めてポツリと声を発する。
口の端を歪めてにやりと笑ったルドルフは、少しだけ胸を張った。

「俺の、いちばんの得意料理なんです。チビ…娘さんもこれだけはうまいと言いまして。」

紅茶を運んできたロナも、テーブルを占拠したケーキに目を見張った。

「どうぞ。召し上がってください。」

言いながら、ルドルフはおよそケーキとは結びつかないその凶悪な顔に
自信ありげな笑みを浮かべた。

==================================

「…いや、美味しかったです。」

認めるのは嫌だけど、といいたげな顔で、ロナは小さくつぶやいた。

隣に座るロミルもまた、大きく切り分けられたケーキにまだかぶり付いている。
巨大なケーキは、すでに半分になっていた。

「独身歴3ケタなんで、料理は得意なんですよ。割とね。」

自分の分を平らげたルドルフが、口元をナプキンで拭いながらさらりと応える。

「ただ、最近は文句を言われる事が多くて…その、娘さんに。」

「え……クローネが、ですか?」

怪訝そうなデルジの声に、ルドルフは軽く頷いた。

「人並み以上にパクパクと食べるんですけどね。いつも言うんですよ、違うって。
『マズイ』とは言わない。『違う』です。味付けが違う、こうじゃないんだ…とね。」

言いながら、ルドルフの視線はロナに向けられる。

「何と違うのかくらいは、俺にでもわかる。つまり、お母さんの味と違うってことです。」

「え……」

返答に窮したロナに視線を向けたまま、ルドルフは少し口調を改めた。

「あいつはチビの泣き虫ですが、弱虫じゃない。特訓がつらいとか、殴られたら痛いとか
そんな事はしょっちゅう口にして泣きます。だけど、どんなに泣いても「帰りたい」とだけは
絶対に言わない。寂しさにだけは、自分の心の強さで真っ向から立ち向かってるんです。
そのへん、あいつはたいした奴です。…だから俺も、真っ向からあいつと向き合ってる。」

言いながら、ルドルフは残っていた紅茶を一気に飲み干す。
カップを置くカチャリという音が、やけに大きくリビングに響いた。

「…だけど、あいつは料理にはとにかく口うるさい。それは、自分でも気付かないうちに
お母さんの味を求めてるからなんだと思います。何と違うのかは形容できないけれど、
自分には食べたい味があるんだと。あいつは、それを無意識に訴えてるんですよ。」

「あの子が…」

つぶやいたロナは、目を伏せてうなだれてしまった。

感情表現の乏しいクローネは、食事の時も声に出しておいしいと言うことは少なかった。
これでは作り甲斐がないと、気分を悪くした事も何度かある。

しかし、あの子は出されたものを残すような事は一度もしなかった。
それが、あの子なりの精一杯の気持ちだったのかも知れない。

そんな事にさえ、今まで気付けなかったとは。

自責の念は、小さな涙の粒となって落ちた。

==================================

「そこで、お願いがあるんですけど。」

ルドルフの声に、ロナはハッと顔を上げた。
自分が涙を零していた事にようやく気付き、あわてて顔を拭う。

「あ、はい。…あたしに、あの子に食べさせるお料理を作れって事ですね?」

「いえ。」

ロナの言葉に、ルドルフはにべもなく首を振った。

「それじゃあ、ただの出前になってしまう。」

「えっ…じゃあ、どうしろと?」

訝しげに問い返すロナの目を見据え、ルドルフは伸び上がって身を乗り出す。
その言葉は、いちだんと明瞭になった。

「あいつがいちばん文句を言う、クリームシチューの作り方を俺に教えて欲しいんです。
レシピだけじゃなく、実際に作ってもらいながら。それで、俺が味のコツを習得します。」

「え…」

ルドルフの顔を見返す2人の顔に、露骨なまでの疑念の色が浮かんだ。
この凶悪な面構えのトナカイに、料理を教える……?

「変ですか?」

無遠慮な視線に晒されたルドルフは、少し不服そうに言って口元を尖らせた。

「俺だって独身歴は長いから、料理のレパートリーは…」

「あ、いえ、そういうつもりじゃないんです!」

非礼に気付き、ロナはあわてて手を大きく振る。
その顔に、さっきまでなかった活気のようなものが宿った。

「分かりました。じゃあ、キッチンへどうぞ。ちょうど食材も余分にあるし、実践で
憶えてもらえると思いますから。…じゃあ、ちょっと降りてお部屋に行ってて。」

膝の上のロミルは、その言葉におとなしく頷いた。そのままポンと
勢いをつけて床に飛び降り、小走りにリビングを出て行く。

かすかに靴跡の残る背中を見送り、ルドルフがポツリとつぶやいた。

「あれがあいつの弟さんですか。」

「ええ。…って言っても、ひとつしか違わないんですけどね。」

そう答えたロナは、戸棚の引出しからエプロンを取り出して手早く腰に巻く。

「じゃあ、さっそく始めましょうか。」

「望むところ…あ、いや…お願いします。」

応えたルドルフもまた、ロナに渡された子供用のエプロンを巻いた。
大きな鈴がアップリケであしらわれたそのピンクのエプロンは、どうやら女の子用らしい。
その愛らしさが、ルドルフの悪人ヅラにひときわ強い違和感を演出した。

「………じゃあ、どうぞ。」

吹き出しそうになるのを何とかこらえ、デルジとロナはルドルフをキッチンに案内する。
もういちど口を少しだけ尖らせ、ルドルフは黙ってキッチンへと向かった。

==================================

「ええっとですね。まずはヤギのミルクを…」

「え、ヤギ?…もうそこから違うな。」

ポケットからメモを取り出したルドルフは、ちびた鉛筆で熱心にメモを取り始める。

「最初に、ある程度低温の炎で暖めて柔らかくしておくんです。それで…」

「ふんふん。なるほど…」

ためらいがちに説明するロナの手つきをまねながら、ルドルフは小さな手に似合わず
器用な手つきで野菜の皮をむく。その手際に感嘆したロナは、説明のスピードを上げた。

「じゃあ、次。コンソメの配合は…」

「はいはい。」

遅れる事無くついてくるルドルフに触発されたのか、ロナの指導にも次第に熱が入る。
心配そうに見守っていたデルジも、真剣な2人の調理にいつしか見入っていた。


「…じゃあ、この後は15分ほど弱火で煮込みます。」

「15分ね。了解。」

調理台の上を手早く片付けながら、なおもルドルフはメモに余念がない。

「じゃあ、ちょっと用を済ませてきますので。時間になったらまた来ます。」

「ええどうぞ。俺はここで火加減を見てます。」

顔を上げずに応えたルドルフを残し、ロナは夫とともにキッチンを後にした。
声の途絶えたキッチンに、シチューを煮込むコポコポという音だけがかすかに響く

メモを一心に反芻していたルドルフの鼻が、不意にピクリと蠢いた。
ゆっくりと横を向いた、その視線の先。
あちこち腫れ上がった顔が、伸び上がるようにしてシチュー鍋の方をじっと見つめている。

さっきまで母親の膝の上にいた、クローネの弟だった。
姉と同じ色の瞳が、ゆっくりとルドルフの顔に向く。

「……ねえ、トナカイさん。」

「なんだ?」

「この煮込みの間に、中身をゆっくりかきまぜるんだよ。」



「あ、そうなの?」

応えるルドルフに、ロミルは小さく頷いた。

「これはお姉ちゃんと、ぼくの役目なの。お母さんが戻るまで、代わりばんこで混ぜるのが…。」

「よっしゃ。」

メモを置いたルドルフは、大きな玉杓子を手にとってシチュー鍋の中に挿し入れた。
そのまま、ゆっくりとかき混ぜながらロミルに向き直る。

「こんな感じ?」

「もっとゆっくり。」

「了解。」

慎重な手つきで攪拌を続けていたルドルフの手に、ロミルは自分の手を重ねた。
そして、ペースを伝えるかのようにゆっくりと力を込める。

「こんな感じだよ。」

「おお、なるほどね。これが味の秘訣なんだな?」

「うん。」

手元を見たまま、ロミルは小さく頷いた。

「食べるのと同じくらい、これが楽しみだったの。一緒にシチューを混ぜるのが。」

「そうか。」

応えたルドルフは、自分のつけているエプロンに視線を向ける。

「…じゃあ、このエプロンは姉ちゃんのか。」

「うん。」


しばし、2人は黙ってシチューをかき混ぜていた。
やがて、ルドルフはゆっくりと視線を傍らの顔に向ける。

「お前、名前は?」

「ロミル。」

「ひでえ顔してるな。」

「うん。」

シチューの湯気に目を向けたまま、ロミルは小声で答えた。

「友達に、殴られたのか。」

「うん。」

答えながら、ロミルは重ねた手の力を少しだけ強くした。
キッチンに入ろうとしていたロナは、息を詰めてじっと2人の会話に耳を傾ける。

「姉ちゃんがサンタクロースの後を継ぐから、殴られたのか。」

「うん。」

「プレゼントを独り占めにするんだろう、とか言われたのか。」

「うん。」

口調を変える事無く、ロミルは淡々と問いかけに答えた。
言葉を切ったルドルフは、顔をロミルに少し近づける。

「なあロミル。」

「なあに?」

「姉ちゃんのこと、好きか?」

「うん。」

ルドルフのサングラスをまっすぐ見返し、ロミルは即答した。
その声に、迷いはなかった。

「姉ちゃんのせいでまたいじめられるとしても、好きか?」

「うん。」

大きく頷いたロミルの顔に、初めて小さな笑みが浮かんだ。


「それと、ぼくがお姉ちゃんを好きなのとは関係ないもん。」

「そうだな。」

どこか嬉しそうな声で答えたルドルフもまた、牙をむき出してにやりと笑う。

「お前、チビのわりにガッツあるな。さすがはあいつの弟だ。…気に入ったぜ。」

ほめ言葉に少しはにかみながらも、ロミルは黙って頷いた。

「お前なら、姉ちゃんや家族の名誉をがっちり守れるだろう。…いいか、痛がっても
泣いてもいい。その代わり、何があってもへこたれるなよ。応援するからな。」

「うん。大丈夫だよ。」

腫れ上がった顔に笑みを浮かべるロミルの言葉に、迷いの響きはなかった。


「…こんなもんじゃないかなあ。」

「お、そうか?」

かき混ぜる手をゆるめたルドルフの目が、柱時計に向けられる。

入口の手前にずっと立っていたロナは、びっしょりと涙に濡れた頬をあわてて拭った。
己を奮い立たせるかのように乱暴に顔をこすり、唇を噛みしめる。

「…母親が、へこたれてる場合じゃないのよね。」

そっと自分に言い聞かせたロナは、せいいっぱいの笑みを浮かべた。
そのまま、キッチン入口にかけられた暖簾をそっとくぐる。

「そろそろ時間ですね。じゃあ仕上げにかかりましょうか。」

「よっしゃ。よろしく。」

向き直ったルドルフの隣に座り。


母親の姿を目で追うロミルの顔には、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

==================================

「いかがです?」

「ええ。申し分ないですね。」

心配げに息を呑むルドルフに、シチューを咀嚼したロナはにっこりと笑ってみせた。

「あたしからは、もう文句のつけようはないです。」

そう言ってたロナの視線が、傍らに座るロミルに向けられる。

「…じゃあ、後はあなたが味見してみて。お姉ちゃんが、おいしいと言うかどうか。」

「え、ぼく?」

目を丸くしたロミルに笑いかけ、ロナは小鉢にシチューを少し注いだ。

「はい。あなたが、いちばんクローネの好みを知ってるでしょ?」

「……うん。」

小鉢と木さじを受け取ったロミルが、熱さに注意しながらゆっくりとシチューを口にする。

「………どうだ?」

ごくりと唾を飲んだルドルフは、身を乗り出してロミルを凝視した。
しばし、張り詰めた沈黙がテーブルを包む。

やがて、小鉢のシチューを平らげたロミルは口を拭って笑顔を浮かべた。

「おかわり。」

「よっしゃあぁ!!」

会心の雄叫びを上げたルドルフは、細い腕を突き上げてガッツポーズを決めた。
その様子に呆れながらも、デルジとロナもまた笑顔でめいめい小さなガッツポーズを決める。

「これで、もう文句は言わせねえぞぉっ!!」

椅子から飛び降りたルドルフは、ロミルを抱え上げて自分のツノの間に座らせた。
そのまま、派手なステップを踏んでリビングを駆け回る。


高い歓声を上げる2人の姿は、まるで影絵のように明るい室内で踊っていた。


==================================


「本当に、泊まっていかれないんですか?」

空になったプラスチックケースを風呂敷に包むルドルフに、デルジが声をかけた。

「今からだと、遅くなると思いますけど…」

「ご心配なく。俺も、サンタのトナカイのはしくれですから。」

にやりと笑ったルドルフは、少し姿勢を正して3人の顔をまっすぐ見返す。

「ご挨拶が遅れてすみませんでした。…なにぶん、うその下手な性分なもんで。」

「え?」

ロナの声には、訝しげな響きが混じった。

「どういう意味ですか?」

「『娘は元気にしてますか』と訊かれて、自信もってハイと答えられるようになってから
お伺いしようと思ってたんです。…それで、今日になってしまったって次第でして。」

大きな包みを抱え、ルドルフは玄関脇に積み上げられた贈り物に目を向ける。

「…ご家族の、悩み苦しみは尽きないと思います。だけど、子供はいつか一人前になって
離れていくもんです。娘さんは、それがちょっと早くて急だっただけです。運命だなんて
安い言い方は好きじゃないけど、少なくとも娘さんはそれと向き合う度量は持ってる。」

その言葉は、ひと言ひと言噛みしめるように紡がれた。

「俺は、責任を持って娘さんを一人前に育て上げてみせます。だから、
これからもあいつを誇りに思ってやっていて下さい。お願いします。」

「だいじょうぶ。任せて。」

頭を下げたルドルフに答えたのは、母親の前に立つロミルだった。

「だからトナカイさんも、お姉ちゃんをお願いね。」

「任されよう。」

顔を上げたルドルフは、自分とほぼ同じ背丈のロミルに牙をむき出して笑いかけた。

「お前も頑張れよ、ロミル。」

「うん!」

大声で答えたロミルの、小さな背中。

涙をこらえながら見つめるロナには、そのちっぽけな背がどこまでも頼もしく映っていた。



「娘のこと、よろしくお願いします。」

深々と頭を下げたデルジとロナに挨拶を返し、ルドルフはそっとドアを開けて外に出る。

一陣の風が、3人の髪を揺らして駆け抜けた時。


その影は、もうどこにもなかった。


「トナカイさん、またねー!!」

力いっぱい声を張り上げるロミルの背後で。

デルジとロナは、肩を寄せ合っていつまでも空を見上げていた。


==================================



夜が更けるにつれて、気温はぐっと下がった。

人通りも絶えた盛り場の辻を、白い息を吐きながらひとつの影が歩いていた。
おぼつかない足取りは、酔いがかなり回っているのを如実に語っている。

時おりよろめきながらも、その影は家路を辿っているようだった。

建物の明かりも、まばらになった頃。

ほろ酔い加減で歩いていたその影の足が、ふと止まった。
少し肩をすくめ、うさんくさげな表情で周囲をうかがう。

かすかに吹きぬける風のほかに、物音はなかった。

気を取り直して、再び歩き出そうとした瞬間。

影―ノームのやせた体は、不意に凍りついたかのようにこわばった。
どこからか叩き付けられた、殺意にも似た強烈な波動。
それが、圧倒的なプレッシャーとなってノームを金縛りにしていた。

やがて。
身動きひとつできないノームの目に、小さな赤い光が映った。
通りの先の闇から近付いてくるその赤い光は、やがて小さな影となって歩み寄る。
”鼻の光”だと察したノームの顔に、新たな恐怖の色が浮かんだ。

「ま、まさか………北の照らし屋……」

ガチガチと歯を鳴らしながら、どうにかノームはそうつぶやく。

「よう。お前がこのへんの配達をやってるノームか。」

地の底から響くような声で言ったルドルフは、ノームのすぐ傍まで歩み寄った。
そのまま、相手の胸座を掴んで睨みあげる。
恐怖に引きつったノームの青い顔は、ますます色を失っていった。



「…俺の事は知ってるな?」

「え、ええ……も、もちろんでさ。」

サングラスの反射光に照らされながら、ノームは愛想笑いを浮かべようとする。
しかし、その顔はますます引きつるばかりだった。

「じゃあ、俺がお前に何の用なのかもわかるよな。」

「えっ…い、いや…それは…」

ルドルフの手が、しどろもどろになった相手の胸をさらにきつく締め上げる。
いつの間にか、ノームの体はかすかに宙に浮いていた。

「お前、ロミルの坊主を足蹴にしただろ?」

「えっ…ひいッ!」

絶句したノームは、ルドルフが不意に手を放したせいで派手に尻餅を突いた。
見上げる格好になったルドルフは、相変わらず自分を睨みつけている。

「な、何のことです旦那?あたしは…」

「とぼけてんじゃねえぞ。」

ぴしゃりと言い放ったルドルフは、身を屈めてノームに顔を近づけた。
その殺気に押され、ノームは震えながら何度も首を縦に振る。

「す、すみません!た、確かに一度だけ…でも、何でご存知なんで?もしかしてあのチビが…」

「下衆の勘ぐりしてんじゃねえよ。あいつがそんなこと口にするわけねえだろうが。」

ますます声のトーンを低くしたルドルフは、牙をむき出した。

「俺の鼻は、伊達に赤いんじゃねえぞ。服に残った、ノームの靴跡の臭いぐらい
嗅ぎ分けるのは簡単な事だ。お前みてえな薄汚ねえ奴のなら、なおさらな。」

「ひいッ…ご、ご勘弁を………」

泣き出さんばかりにうろたえるノームをしばし睨みつけ、ルドルフはフンと鼻を鳴らす。

「子供の喧嘩によけいな口を出す気はねえ。だが、お前みたいなのは見逃せねえんだよ。」

口調はゆっくりだったが、そのひと言ひと言には押し潰すような殺気がこもっていた。
蒼白になったノームの顔に自分の顔をさらに近づけ、ルドルフは月光に牙を光らせる。

「…本来なら、お前なんぞ地の果てまで蹴り飛ばしてやる所だがな。」

そこまで言ったルドルフは、言葉を切って少しだけ視線を上に向けた。

「けどここで俺が手を出したら、根性で耐えてるあの坊主のガッツにケチがつく。あいつも、
そんなくだらねえ仕返しは望んじゃいねえ。…だから、今度だけは勘弁してやる。」

噛んで含めるように言ったルドルフの体が、腰を抜かしたままのノームからスッと離れる。
九死に一生を得たという表情で、ノームが上体を起こした瞬間。

「え…ひ、ひいィッ!!」

不意に振り返ったルドルフの手が、再びノームの襟首を掴み上げた。
この細い腕のどこにあるのかという剛力で締めつけ、そのまま片手で相手を持ち上げる。

「だが憶えとけ。もしまた同じような事をやったら、その時は絶対に許さねえぜ。
跡形も残らないよう、5ミリ角で賽の目に刻みつぶしてやる。…わかったか?」

「わ、わか…分かりました旦那!…お、お許しを………!!」

「いいな。俺はいつでも見てる。…そして、いつでも飛んでくるからな。」

最大級の殺気を込めたひと言に、街路樹の葉が戦慄したかのようにざわめいた。



その音が鳴り止むと同時に、ノームの体はどさりと地面に落ちる。


ルドルフの影は、もうどこにもなかった。



呆けたような表情で周囲を見回したノームの目が、路肩に転がる酒瓶を捉える。
酒場からの帰り際に買った、安酒の瓶だった。フタを開けたままだったせいで、
その中身はほとんどがこぼれて草むらに染み込んでしまっているらしかった。

「…なんだ?……俺、酔ってたのか?」

怪訝そうな顔でつぶやくノームは、何度か大きく頭を振った。
何だか、おそろしい夢か何かを見せられていたような気がする。

しかし、うら寂しい田舎道にそんな形跡は残っていなかった。

「ちょっと最近、飲み過ぎだからなあ。」

自分を納得させるようにつぶやいたノームは、勢いをつけて立ち上がる。

と、その拍子に。

前髪から、何か小さな破片が落ちるのが視界の隅に映った。

「……?」

怪訝そうに視線を向けた瞬間。

「な…ひ、ひいッ!!」

裏返った声を上げたノームの頭から、大量の布切れが舞い落ちた。
被っていた帽子が、細かい賽の目に切断されてぱらぱらと路面に散っていく。

音もなく舞い落ちるその布片を目にしたノームの脳裏に、まざまざと恐怖がよみがえった。


(跡形も残らないよう、5ミリ角で賽の目に刻みつぶしてやる。…わかったか?)


「ご…ご勘弁下せえ旦那……ッ!」


うわごとのように繰り返しながら。
青ざめたノームは、誰もいない寒々とした闇に向かって土下座し続けていた。


==================================


「あー、これこれ!この味ですよー!!」

クリームスープをひと口すすったクローネは、甲高い歓声を上げた。
熱さも意に介さず、そのまま勢いに任せてシチューをがつがつとかき込んでいく。

「やればできるんじゃないですか先生!!」



「うるせえッ!」

怒鳴り声を返しながらも、ルドルフは鼻高々に笑った。



「俺さまを誰だと思ってやがるんだ?…そう、本気出せばざっとこんなもんよ。」

木さじを得意げに振り回しながら、自慢は続く。

「料理は素材の探求と、手間ひまを惜しまない真摯な姿勢こそが大事なのよ。
鍵になるのはミルク。そして火加減と野菜の切り方だ。さらには煮込みの間の…」

「おかわり。」

まったく聞いていないといった風で、クローネは空になった器をルドルフに差し出した。

「…聞けよ人の話…。」

口を尖らせながらも、器を受け取ったルドルフはいそいそと大鍋からシチューを入れ直す。
受け取る間も惜しんでかき込むクローネに負けじと、彼もまた勢いづいて食べ始めた。


カチャカチャという音だけが響く、晩餐のひととき。

はるか頭上の澄んだ空には、こぼれ落ちんばかりの星が瞬いている。



明日もまた、北の国はいい天気になりそうだった。


================【続く】===============


●TOP●
●第一章●

●第二章●
●第三章●
●第四章●

●第五章●
●第六章●
●第七章●

●第八章●
●第九章●
●第十章●
●第十一章●
●第十二章●

広告 無料レンタルサーバー ブログ blog