第六章:7月
〜あせらず行こう、わが道を〜
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真っ白な雪に包まれた地面。
そこに滴り落ちる血の滴は、あまりにも鮮やかなコントラストを描いた。
赤い鼻から流れる血の色は、負けないくらいに赤い色を湛えている。
震える手で踏ん張って立ち上がったルドルフは、乱暴な仕種で鼻をぬぐった。
べっとりと血が付いた腕を振ると、あらたな飛沫が細かく雪に模様をつける。
「…どうした。」
かすかにひざが震え始めた足を踏ん張り、ルドルフは正面に向き直った。
「こんなもん、痛くも痒くもねえぜ。」
そう言った瞬間。
うなりを上げた拳が、薄笑いを浮かべようとする顔の左側面を捉える。
バキッという鈍い音が響き、ルドルフの小さな体は地面に叩き付けられた。
なおも止まらない勢いのまま転がり、ヘビが這ったような血の跡が雪の上に残る。
殴りつけた手の甲にも、血の飛沫が点々と跡を残していた。
しかし手の持ち主には、それに気付いたような様子はなかった。
荒い息をつきながら、殴り倒したルドルフに目を向けるクローネには。
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2日前の事だった。
北極海を航行中のロシア船籍の大型貨物船が、岩礁に迷い込んでそのまま座礁した。
船体そのものにはさほど損傷はなかったものの、動く事の出来ない状況。
天候も悪く、救助船も現場に近づく事が出来なかった。
「なんだ、ずいぶんと大変な事になってるじゃねえか?」
リビングに据え付けられたテレビでその緊急事態を知ったジョニーは、すぐに
ルドルフとクローネに知らせた。
「…そこの海域なら、まっすぐ海に出ればすぐの場所だな。」
「ほっとく訳にもいかねえかもな。」
ジョニーと短い言葉を交わし、ルドルフは傍らのクローネに向き直った。
「よし。じゃあお前、行って船を救助してこい。」
「えっ!?…あたしがですか!?」
「そうだよ。」
さも当然といった口調で応え、ルドルフはクローネの肩をポンポンと叩く。
「今のお前のスピードとパワーなら、楽勝だろ?もちろん、目撃はされるなよ。
下手に見られたりしたら、どんな厄介ごとが起こるか分からねえからな。」
「…そんなこと、あたしに出来るんでしょうか。」
「大丈夫だろ。まあ、何事も経験だ。ほれ行ってこい。」
促され、クローネはためらいながらも頷いた。
「……じゃ、とりあえず行ってきます。」
言い終えた瞬間、すでにその姿はなかった。ミサイルにも匹敵するスピードで
疾駆するその体は、瞬く間に海岸線に到達し、そのまま海面へと躍り出た。
あまりにもそのスピードが速いため、沈む前に体は前へと進む。
水の上に複雑な波紋を残しながら、クローネは一直線に沖合いの船へと突進した。
「…!?…な、何だっ!?」
損害状況をチェックしていた貨物船の乗組員たちは、ズシンという低い衝撃に身をすくめた。
もしかすると、船体のどこかに漂流物か何かがぶつかったのか。
これ以上大きなダメージを受けたら、船体が分解してしまう危険があった。
船内が騒然とする中。
傾いていた船体が、地鳴りのような音を立てて動き出したのが分かった。
なかば持ち上げられるかのような振動と共に舳先の向きが変わり、ゆっくりと正面から
水の中へと戻されていく。やがて、船体は静かに水面に浮かんだ。
「な、何だ…助かったのか!?」
緊張に身を固くしていた船員たちの間に、次第に歓声が湧き上がり始めた。
座礁の際の損傷はきわめて小さかったため、着水できれば後は自力で航行できる。
荒れていた天候も、そろそろ回復に向かっているようだった。
「まさに、天の助けだな。」
「おい、あれ何だ!?」
大きく息をついた船長の背後で、歓声とは違う大きな声が上がった。
反射的に振り向いた船長の目が、船の背後の水面に向けられる。
同時に、その目に驚愕の色が広がった。
ところどころ氷塊の浮かぶ水面に、不可思議な波紋が生まれていた。その上をまっすぐ
辿るかのように、ひと筋の赤い光が一直線に陸の方へと走っていく。
何なのかはまったく見当がつかなかった。一瞬の内に波紋は消え、赤い光も
地平の彼方へと消え去っていった。
「…ひょっとして、あの光が俺たちを助けてくれたのか…。」
つぶやいた船長の声は、駆け抜ける風にかき消された。
まあ、何でもいい。
もしも助けてくれたのなら、すべき事は詮索ではなく感謝だ。
北の大地に住む、赤い超人とでも言えばいいだろうか。
「まるでサンタクロースだな。」
武骨な海の男には似合わないひと言に、言った船長本人が笑いを漏らした。
ひとしきり笑った後、あらためて表情を引き締める。
「よし。離脱できたんならこのまま行こう!…今度はヘマするんじゃないぞ!!」
「了解しましたー!」
よく通る船長の声に、船員たちは手を突き出して口々に応える。
ついさっきまで悲壮感に満ちていたのが、嘘のようだった。
大きな汽笛の音を残し、貨物船はゆっくりと去っていった。
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翌日。
「おー、やってるじゃねえか。昨日の船、無事に帰港できたってよ。」
朝のニュースを見ていたジョニーが、画面を指差して声を上げた。
朝食の後片付けをしていたルドルフとクローネも、声につられてリビングに
どやどやと集まってくる。
『…乗組員たちの中には「赤い光が走るのを見た」と証言するものも数人おり、
その正体に関する議論もさかんに交わされているもようです。絶体絶命の苦境を
救った姿なき超人。母国ロシアでも、その噂で持ちきりになっています…。』
「ほほお、姿なき超人ね。そりゃ凄い。」
「完全に姿を見せずに、って訳にはいかなかったみたいだな。」
「…ええ。注意はしてたんですけど。」
肩をすぼめて言いながらも、クローネの顔はどこか誇らしげだった。
やがて、ニュースは切り替わった。
中東の国で起こった内戦による死者の数が、ついに4ケタに達したという内容。
大きすぎるガーゼを頭に貼り付けた子供の映像が、いっぱいに映し出されている。
混迷の度合いを増す宗教戦争に、解決の糸口が見えないという報道だった。
「もういいだろ。そろそろ腹ごなしに朝のトレーニングに行くぜ。」
「…もうちょっとだけ。」
珍しく、クローネは食い下がった。
じっとテレビの画面に視線を向けたまま、低い声で応える。
「これだけ見させてください。」
どこか真剣な口調に、ルドルフは急かす言葉を呑み込んだ。
すぐ脇に歩み寄ったジョニーが、目の前のクローネの背に視線を向ける。
「…なんだ、ずいぶんと真剣じゃねえか。」
「…………。」
こちらも何か、思うところがあるらしい。
応えることなく、ルドルフもじっとクローネの背越しに画面を見据える。
やがて、国際ニュースは終了した。
楽曲を紹介する番組が始まると同時に、クローネはリモコンを手にとって電源を消す。
「すみません、お待たせしましたー!」
向き直って言いながら、浮かべた笑顔。
いつもと変わった印象は、特に感じられなかった。
黙って先を行くルドルフに付き従い、いつも通り小走りに外へ出て行く。
いつもと同じ、ハードなトレーニング。
しかし、挑むクローネの顔はいつもとはどこかが違っていた。
それに、気付いていたのだろうか。
いつもは怒声の飛び交うトレーニング。しかしその日は、どちらもあまり喋らなかった。
何かを、お互いの中に感じているかのように。
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その日の夜。
「…何だ、チビちゃんにしては珍しいな。」
ポツリとつぶやくジョニーの視線の先で。
クローネは、ずっとテレビのニュースに見入っていた。
世界の情勢は、ひと言では括れない多様さを持っている。
しかし、明るい話が少ないのは事実だった。
貧困と飢餓。絶え間ない紛争。
人が人を傷つけ、命を奪い合う負の連鎖。
いつも、傷を負うのは争いなど望んでいない人たち。
悪意の根源も戦争の大義も、とうの昔に見失われている。
歩み寄ることをひたすら拒み続ける、幼稚な意地の張り合い。
その馬鹿げたいがみ合いの中で、人の命と尊厳はいたずらに蹂躙される。
流れる映像の中に、聞こえるのは悲鳴だけだった。
「おいクローネ。」
やや大きなルドルフの声に、背を丸めていたクローネはゆっくりと振り返った。
「いつまでもテレビ観てねーで、早く寝ろ。明日も早いぞ。」
「…はあい。」
意外と素直に応え、クローネは腰を上げてらせん階段へと向かった。
2階の自室へ向かうペタペタという足音が、次第に小さくなっていく。
部屋に入ったとおぼしき音が響くと同時に、ジョニーはリモコンを手に取った。
消そうとしたテレビの画面には、自動小銃を抱えた少年の姿が大映しになっている。
「…なんか、色々考えてるみてえだな。あのチビちゃん。」
「ああ。」
後片付けを終えたルドルフが、手を拭きながら近付いて来た。
渡されたリモコンをテレビに向け、電源を切る。
音の途絶えたリビングに、窓を鳴らす風の音が小さく響いた。
「あいつも馬鹿じゃねえ。自分がどういう存在なのかは、分かってるだろ。」
「だろうな。」
頷いて同意を示したジョニーが、まっすぐにルドルフの顔を見据える。
黒ボタンの目に、何かを訴える色が浮かんでいた。
「…それで、どうする気だよ。」
「どうもしねえよ。」
即答したルドルフは、光の消えたテレビの画面に視線を向ける。
「どうもしねえってのが、最初から決めてた俺のやり方だ。」
「それで済むのかよ。」
「済まなかった時は、ジジイに後を任せる。」
「…じいさんに?」
怪訝そうに問いかけるジョニーに、ルドルフは小さく笑ってみせた。
「俺は口下手だからな。」
「………。」
応えないジョニーの肩を軽く叩いたルドルフが、そこでふと口調を改める。
サングラスの奥に光る目に、かすかな意志の色が宿ったように見えた。
「だからジョニー。お前も口は挟むなよ。これは、俺とクローネの問題だ。」
「そんな野暮はしねーよ。」
口もとを歪めて笑いながら、ジョニーも口調を改める。
「お前の馬鹿さ加減くらい知ってる。言っても聞かねえ強情さもな。」
「そういうこった。」
視線を交わし、2人はほぼ同時に笑った。
その声に、深刻な響きはなかった。
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翌日の朝。
空は、どこまでも高く澄み渡っていた。
食事を済ませて外に出たルドルフは、大きく伸びをする。
「今日は特訓日和だな。気合い入れていくぜ。」
「………。」
距離を置いて背後に立つクローネは、うつむいたまま応えなかった。
腕を下ろしたルドルフは、振り返って眉間にしわを寄せる。
「どうした、寝不足か?なんか覇気がねえぞ、お前。」
やはり、応えはなかった。
怪訝そうな表情を強めたルドルフが、もう一度問いかけようとした時。
「先生。」
意を決したかのような強い口調で、クローネが声を発した。
「昨日…いえ、おとといから考えてたんですけど。」
「何だ?」
「あたし、もっと出来ることがある気がするんです。」
「出来ること?」
問い返すルドルフの目を見据え、クローネは決意を込めた声で続ける。
「おととい、貨物船を持ち上げた時に思いました。これほどの力とスピードが
あるんなら、人の目に触れないでいろんな事が出来るんじゃないか、って。」
言いながら、クローネは視線を空に向けた。
「…ずっとここで、修行してきましたけど。だけど、世界に目を向ければ、あたしが
力を貸せそうな事が色々ある気がするんです。大勢の人を、助けられるような。」
「大勢の人を助ける?」
腕組みをしながら言ったルドルフが、眉を吊り上げる。
「漠然としてるな。具体的には、どんな事だ?」
「武力抗争の鎮圧とか、飢餓の地への食料運搬とか…そういうことです。あたしほど
足が速ければ、誰かに見られたり捕まったりは絶対しないですから。」
言いながら興奮してきたのか、クローネの語気はだんだん荒くなった。
「クリスマスの夜にプレゼントを配るより、もっと大勢の人に幸せをもたらす事になると
思いませんか?それができるんなら、やるべきだと思います!」
「なるほどな。」
あっさりと頷いたルドルフの姿に、クローネはさらに勢いづく。
「きっと出来ると思うんです。ゆうべ、ずっと考えてたんです!…だから先生、
一緒にやりましょうよ!あたしと先生なら、絶対に……」
「俺はやらねーよ。」
熱っぽい言葉を遮り、さも当然といった口調でルドルフは口を挟んだ。
「正しい考えなのは事実だが、俺の主旨には沿わない。頼まれたってご免だな。」
「え……」
勢いを削がれたクローネの顔に、ありありと失望の色が浮かび上がる。
その表情には、怒りの色すらも見えていた。
「…じゃあ、これもいつもみたいにお前ひとりで勝手にやれですか?」
「いいや。」
向き直ったルドルフは、語気を強めた。
「お前も行くな。」
異議は一切認めないとでも言うかのような、強い口調。
ぴしゃりと言い放ち、ルドルフの目はまっすぐクローネを見据えた。
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「…何でですか?」
納得できない態のクローネは、拳を握りしめてルドルフに詰め寄った。
「あたし、そんなに馬鹿なこと言ってますか?…もっと大勢の人を助けたいって、
そう思うことが…そんなにいけないことなんですか!?」
「そうは言ってねえ。」
答えつつも、ルドルフが譲歩の姿勢を見せる気配はない。
「ただ、お前は行くべきじゃねえって言ってるだけだ。師匠の言葉には従え。」
「……」
にじり寄ったクローネの表情は、ますます険しくなった。
それでもルドルフは、顔色ひとつ変えずに相手の顔を睨み返す。
「先生は、世の中を正しい方向へ導こうとは思わないんですか?
それができる力は、間違いなく持っているはずなのに。」
「それとこれとは別だ。」
「別じゃないですよ!!」
怒鳴り声を上げたことで、2人の間の空気はますます険悪になった。
その様子を、ジョニーが家のベランダからじっと見つめる。
沈黙は、ことさら長く感じられた。
やがて。
「…いいだろう。」
ポツリとつぶやき、ルドルフは腕組みを解いた。
「行きたければ行け。その代わり…」
あえて口調を変えず、淡々と続ける。
「この俺を、おまえ自身の拳で黙らせる事ができたらな。」
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「………え?」
思いがけないルドルフの言葉に、クローネは思わず数歩後ずさった。
「そ、そんなこと出来るわけ…というか、そんなの全然関係ないじゃないですか!」
「なくねえよ。」
即答し、ルドルフは一歩足を踏み出す。
「武力抗争の鎮圧って言ったよな?…まさか、仲良くしましょうって大声で言いながら
ニコヤカに説得する気じゃねえだろ?だったらお前自身も、そいつに頼る事になるんだぜ」
「え……」
「なら、俺がお前の力のほどを見究めてやる。俺が倒せなかった時には、あきらめて
ここに残れ。…そこまでは譲歩してやるんだ。悪い条件じゃねえだろうが?」
「そ、そんなこと…」
「できねえってのか?」
口調にいささか侮蔑の響きを込め、ルドルフは声を荒げた。
「一晩考えた末のお前の覚悟ってのは、その程度かよ!」
言い放ったルドルフが、踏み出した右足を勢いよく振り上げた。足元の雪が弾かれ、
目の前で立ちすくむクローネの顔に飛び散る。
強く握りしめた拳を一瞥し、ルドルフは陰気に笑った。さらに、挑発するように顔を突き出す。
「ほら、来いよハナタレ。」
一瞬の沈黙を置き。
鈍い音が、風の中に響き渡った。
渾身の力で繰り出されたパンチが、薄ら笑いを浮かべるルドルフの左頬に叩き込まれる。
吹き飛んだその小さな体は、積み上げられていた薪材の山の中へ轟音と共に突っ込んだ。
その衝撃で、家自体もかすかに揺れる。
「………!」
びりびりと床越しに伝わった衝撃に、見つめるジョニーはかすかに顔をしかめた。
「…手加減なしかよ。」
気付かないうちに、欄干をつかむ布製の手に震えるほどの力がこもっていた。
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数秒の間を置き。
崩れた薪材をカラガラとどかしながら、ルドルフが立ち上がる。
口の中が切れたらしく、唇の端から赤い血が垂れていた。
「…フン。そんな程度かよ?」
さらに挑発するように鼻で笑い、あごを伝う血の筋を乱暴にひづめで拭う。
「正義の味方を気取るにゃあ、パンチ力不足だな。そんなんじゃ死ぬぜ?」
「………!」
興奮で顔を赤く上気させたクローネは、つかつかとルドルフに歩み寄った。
遮る間もなくその胸ぐらを掴み上げ、薪材の山から引きずり出す。
手を離した瞬間。
姿勢を正そうとするルドルフの腹にもう一度、さらに強烈なパンチを叩き込んだ。
あらがう術も無いその体は、放物線を描いて地面に叩き付けられる。
衝撃で飛び散った雪の白さの中に、かすかな赤が混じった。
口から吐き出したらしい鮮血の飛沫が、雪原にかすかな跡をつける。
頭に血が昇ったクローネの目に、その色は映らなかった。
大股で歩み寄り、仰向けに倒れたルドルフのツノを掴んで無理やり立たせる。
そのままの体勢で殴りつぶされた鼻から、新たに血が噴き出した。
ツノを離すと同時に、ぐらりと揺れた体は仰向けに倒れ伏す。
一度も、悲鳴は上げなかった。
気付かないうちに、クローネの手の甲には鮮血の飛沫がこびり付いていた。
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「……ぐ……ッ」
低いうめき声を上げながら、満身創痍のルドルフはなおも立ち上がった。
ひび割れたサングラス越しの目は、なおもクローネの顔をまっすぐに見据えている。
血まみれの顔には、どこか嬉しそうな笑顔すら見てとれた。
「…どうした、もう終わりかよ?俺はまだ…ピンピンしてるぜ。」
よろめきながらも、ルドルフは目の前のクローネに歩み寄る。
泣きそうな顔を凍りつかせ、クローネは逃れようとするかのように拳を振り上げた。
鈍い音が響き、ルドルフの体は前のめりに倒れ込む。
真っ白な雪の表面に、流れる血のシミがゆっくりと広がった。
荒い息をつくクローネが、ふと自分の手の甲に目を向ける。
頭に血が昇っていたせいで気付かなかったが、指の付け根の皮が少し剥けていた。
その上に、あきらかに自分のものとは違う血のりがべっとりと付いている。
「え……」
その赤い色が目に飛び込んだ途端。
熱く張り詰めていたクローネの心は、芯が折れたかのように挫けた。
引きつっていた顔をくしゃくしゃにして、瞳から大粒の涙をこぼし始める。
ひざを突いて泣き出したその眼前で、瀕死のルドルフは力を振り絞って体を起こした。
ひづめの割れた右手を差し出し、涙と汗にまみれたクローネの前髪に触れる。
「…いいか。」
体を震わせながら泣きじゃくるクローネの耳に、かすかな声が響いた。
ハッと向けた視線の先で、ルドルフは笑みを浮かべて血混じりの声を絞り出す。
「…お前はまだ子供だ。世界の頂点に立つことはできても…
サンタクロースには、まだなれねえ。まだ、そこまではいってねえ。」
嗚咽を漏らしながらも耳を傾けるクローネに、ルドルフはなおも語りかけた。
「…今行けば、もう…ここには帰ってこられなくなるぜ。……それを………」
そこまでだった。
力尽きたルドルフは、そのまま倒れ込んで沈黙した。
「……先生………」
ぼそりとつぶやいたクローネが、やがて悲鳴のような声を張り上げる。
「…せ…せんせぇい!!」
応えないルドルフのズタズタの体を胸に抱き、クローネは声の限り呼び続けた。
「先生、先生!!しっかりして…先生――!!」
その泣き声に呼応するかのように、にわかに空から大粒の雨が落ち始めた。
たちまちのうちに地面の雪と混じる雨粒が、飛び散ったルドルフの血を洗い流していく。
「…バカどもが、やっとかよッ!!」
まんじりともせずに顛末を見届けていたジョニーは、脱兎のごとく駆け出していた。
全てを洗い流すかのような、冷たい雨。
その只中で。
ルドルフの体を胸に抱きながら、クローネはひたすらに泣いていた。
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日暮れが近付くにつれ、ようやく雨は小降りになった。
屋根や枝から落ちる雨粒の音が、まるで木管楽器のような規則正しいメロディを奏でている。
ベッドに横たわるルドルフは、全身を包帯に包まれていた。
三度取り換えたにもかかわらず、あちこちにまだ血のシミが滲んでいる。
それでも、弱々しいながら呼吸はしていた。
部屋着に着替えたクローネは、ベッドの脇でうつむいて座っていた。
ただでさえ小さい背中を丸めているため、その体はなおさら縮こまって見える。
食事も摂らず、クローネはひたすらルドルフの傍に座っていた。
雨が止んだ事が、滴の音で分かるようになった頃。
低い音を立てて、入口の扉が開いた。
ごそごそという音と共に、大きな影が家の中へと入ってくる。
クローネは、顔を上げようとはしなかった。
無遠慮に入ってきたその影は、迷うことなく寝室へと歩を進める。
いくらも経たないうちに、影はクローネのすぐ背後にまできていた。
「………」
しばし、沈黙が流れた。
クローネの肩越しに、影はじっとベッド上のルドルフを見ているらしかった。
かすかな息づかいが、頭上から聞こえる。
さらに、いくらかの沈黙の時が過ぎ。
大柄な影は、そっと身を屈めた。
「…クローネや。」
「はい。」
即答しながらも、クローネは振り返らなかった。
代わりに、相手の声から逃れるようにますます体を丸める。
その小さな背に、相手の手がポンと触れた。
大きく、そして温かい手のひら。
サンタクロースのぬくもりだという事は、振り向かなくてもすぐに分かった。
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「遅くなってすまんな。」
優しい声で言ったサンタは、傍らにあった大きな椅子を引き寄せて腰を下ろした。
ギイッとかすかにきしむ音が、静かな室内に響く。
「…お腹はすいてないか?」
問いかけに、クローネは弱々しく首を振った。
「そうか。」
一呼吸置いたサンタは、体を揺らして座りなおす。椅子は、さらに高い音を立ててきしんだ。
「…それで、何があったって?」
「……………」
クローネは、すぐには答えなかった。沈黙の中に、重いものが混じる。
急かす風もなく、サンタは黙って返答を待った。
すっかり緩慢になった雨粒の音が、思い出したようにぽたりと落ちる。
しばしの、沈黙ののち。
「…あたしが。」
うつむいたまま、クローネが声を上げた。
「あたしが、先生を殴り倒したんです。」
「そうか。」
短く応えたサンタに、それ以上追求する気配は無い。
しかし、クローネは途切れ途切れに続けた。
「世界中の紛争を止めたり、飢餓を救済しに行きたいって。…あたし、先生に
そう言ったんです。だけど、先生は…ダメだって言いました。行くのは許さんって。
俺を殴り倒す事ができれば、行ってもいいがな…って…」
「それで、手を出したんだね?」
「…………………はい。」
「行かなかったのかい?」
「……」
もぞもぞと足をすり合わせるクローネに、サンタはゆっくりと向き直る。
「倒す事はできたけど、行かなかった。…そういう事なんじゃな?」
「………」
黙って頷くクローネに、サンタも大きく頷いてみせた。
「どうして行かなかったのかな?」
「…先生の言葉の意味が、分からなかったから。」
「どんな?」
「あたしは、世界の頂点には立ててもサンタクロースにはなれないって。
そして、今行ったらもう二度とここには帰って来られなくなる、って…。」
「…なるほどな。」
じっと聞き入っていたサンタは、目を閉じてもう一度頷いた。
「それで、クローネや。」
少し改まった口調に、クローネは背筋を伸ばした。
相変わらず穏やかな顔で、サンタはゆっくりと問いかける。
「…お前は、ルドルフ先生が嫌いか?」
「ううん。」
考える前に答えたクローネが、勢いよく首を横に振った。
「先生を殴っている間、どんな感じがした?」
「それは…」
率直な問いに顔をこわばらせながらも、クローネはぼそりと答える。
「…いやな感触が、何度も手から伝わってきた。1回ごとに、先生の体が傷付くのが
はっきりと分かって…。それでもやり返してくれない先生は、傷だらけの顔でずっと
笑いかけてて。その笑顔が怖くて…あたしは………」
そこまで言った声は、かすかにうわずった。
絶句したクローネは椅子の上でひざを抱え、体を震わせる。
「…あたし、もう修行やめます。」
「……そりゃまた、どうしてだね?」
意外だと言いたげなサンタの問いに、、クローネの語調は荒くなった。
「どうしてって…!あたしは、先生をこんな姿にしたんです。今までずうっとあたしを
鍛えて、育ててくれてた先生を…こんなボロボロの姿に変えて。許されるわけない。
こんな事をしてしまったあたしに、もうおじいちゃんの跡を継ぐ資格なんか…!!」
「ひとつ訊こう。」
叫び声に近くなったその言葉を、サンタは片手を上げて遮る。
気を呑まれて口をつぐんだクローネに投げられた言葉は、淡々としていた。
「暴力を振るったのは、誰だね?」
「…あ、あたし……です。」
「振るわれたのは?」
「……ルドルフ先生です。」
「なら、分かるじゃろう。」
眠り続けるルドルフに視線を向け、サンタはゆっくりと続ける。
「許すか許さないかを決めるのは、お前ではないよ。それを決めるのは彼じゃ。
勝手に自分で結論を出してはいかん。それは、おまえ自身が自分のした事に
背を向けて逃げだすのに等しい。……答えがどんな形であれ、お前は先生と
まっすぐ向き合う義務があるんじゃよ。…それだけは、ちゃんと認めなさい。」
「………だけど…」
口ごもりながら、クローネもまたルドルフに目を向けた。
「こんな事になって、先生があたしを許すなんてことは」
「ルドルフを侮ってはいかんよ。」
ひときわ強い口調で、サンタはきっぱりと言い放った。
「お前とは、歩いてきた道の長さ、険しさが違う。お前の頭で量れるほど、彼の信念は
弱いものではないんじゃよ。だから、とにかく待とう。彼の回復を。」
「………うん…。」
消え入りそうな声で応えたクローネは、うつむいてぽろぽろと泣き出した。
黙ってその背を撫でるサンタの手に、かすかな震えが伝わる。
雲の晴れた夜空から、蒼い月明かりが差し込みつつあった。
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クローネや。
先生の言葉の意味が、よく分からないと言ったね。
…うん。
世界の頂点に立てても、ワシの後継者にはなれない。
そして、一度行ってしまえば、もうここへは戻れない、と。
意味が分からないなりに、お前はここに留まった。
やっぱり、少しは引っかかっていたんじゃな?
…本当に戻れなくなるのか、だとしたら、それはどうしてなのか…
それが、ぜんぜん分からなかったから。
なるほどな。
お前らしい。そして、それ以上にルドルフらしいな。
のう、クローネ。
紛争を鎮圧するために、お前のその能力を使う。
悪い話ではないじゃろう。おそらく、お前のスピードとパワーがあれば
どんな戦いでも止める事はできるじゃろうな。
それは、大いなる平穏をもたらす事になるかも知れん。
しかし、な。
世界の事情とは、お前が思っとるほど単純ではない。
たとえいま現在の戦いをすべて止めたとしても、必ずまた新たな戦いの
火種が、世界のどこかで生まれる。
悲しいが、それが人間の業とでもいうものなんじゃろうな。
何らかの形で手を出してしまった後、それに気付いたとしても遅い。
一度でも戦いに介入すれば、「その後」を看過するのは許されない。
お前は、ずっと世界中の紛争を鎮圧するために奔走し続けなくてはならなくなる。
もちろん、ここでプレゼントを配る準備など、できなくなる。
さっき、確かに言ったね?
先生を殴り続けた間、ずっと嫌な感触を味わったと。
お前が目指す道は、その感触の終わりなきくり返しになる。
話し合いで道が見えるのなら、誰も戦いなどしない。
結局、お前はずっと暴力を手段にしなくてはならなくなる。
その、嫌な感触を体中に沁み付かせながら。
その血にまみれた拳を見て、子供はサンタクロースを夢見るだろうか?
胸を張って、生きていく事ができるだろうか?
…じゃあ、おじいちゃん。
あたしの考えた事は、最初から間違っていたの?
世界を救いたいと、考えた事が。
いいや。
それは、決して間違ってはいない。
ルドルフも、行くなとは言っても考えそのものは否定しなかったろう。
そう考えて行動しようとするのは、決して間違いではないよ。
じゃあ、どうして?
どうして、行っちゃダメだったの?
それは、その考えが人間の立場からの発想だからだよ。
我々は、人間ではない。
生きる道も目的も、人間のそれとは決定的に違う。
同じフィールドに立とうとすれば、必ず大きな歪みが生まれるじゃろう。
ワシらは、ワシらなりの道を歩まなくてはならん。
平和を模索すべきなのは、結局は人間たち自身なんじゃよ。
自分の手で掴まなければ、平和は根付きはしない。
ワシらの成すべきはひとつ。
明日を目指す子供たちに、小さな夢のかけらを送る事。
そこにある意義に、今すぐ気づけとは言わん。
ルドルフも、無理にいま理解しろとは言わんじゃろう。
考えなさい。
まずは、そこから始めなさい。
自分の力が、何のためにあるものなのかを、ね。
……うん。
まだ、よくは分からないけど。
でも、考えてみます。
よし。
じゃあ、今日はもう寝なさい。
…え?
そんなのダメだよ。
あたしは、ルドルフ先生の手当てをしないと…
大丈夫じゃよ。そのためにワシが来たんじゃからな。
お前は、もう寝なさい。あとの話は、明日すればいいから。
あとは、ワシに任せなさい。
いいね。
………………うん。
おじいちゃん。
本当に、ごめんなさい。
分かった。
それじゃ、行こうか。
もう、遅いからね。
ゆっくり、お休みなさい。
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夜が更けるとともに、少し風が強くなってきていた。
薄明かりの下で、サンタはじっとルドルフの姿を見守る。
ふと、小さな足音が部屋に入ってきたのが聞こえた。
振り返ったサンタの目が、クローネよりもさらに小さな影を捉える。
「よう。久し振りだなじいさん。」
誰なのかを察する前に、影は低い声で言った。
それを耳にしたサンタが、かすかに目を細めて笑う。
「…ホホッ、お主はジョニーではないか。そうか、戻っておったのか。」
「まあな。…チビちゃんはもう寝たんだな?」
言いながら、ジョニーはさっきまでクローネが座っていた椅子に飛び乗った。
体が軽いため、ほとんど音は立たない。
「ずいぶん、荒っぽい事になっちまったみてえだな。」
「…まあ、そうじゃな。」
一緒にルドルフの寝顔を見ながら、サンタは深いため息をつく。
「ワシも、この目で見てみてかなり驚いた。まさか、ここまでやるとは…」
「過ぎた力ってのは、手加減を知らねえと凶器になるからな。」
言いつつ、ジョニーも表情を険しくする。
「…こいつ自身が手出しも口出しも無用だって言ってたから、あえて俺も口は
挟まなかったんだけどよ。それでも、見てるのはけっこうキツかったぜ。」
「お主にも、そういう事は言っておったのか。」
サンタの声は、淡々としていた。
「…実はワシも、何ヶ月か前にこやつに言われたんじゃよ。もしもクローネが己の
力を何らかの理由で自分にぶつけたとしても、絶対に手出しはするなと。そして
もしも自分に何かあったとしても、クローネを叱らないでやってくれ……とな。」
「そこまでお見通しかよ。こんなボロボロの姿にされやがって…。」
憎まれ口とは裏腹に、ジョニーの顔には寂しさが滲んでいる。
目を伏せたサンタも、苦渋に満ちた表情をその髭面に浮かべていた。
「…俺は体を張ってあいつを止める。だから、後のフォローは頼む…。ルドルフが
言いたかったのは、つまりはそういう事なんじゃろうな。」
「…けどよぉ。」
同意を示しつつも、ジョニーは声を荒くする。
「毎度毎度こんな事が続いたんじゃ、身がもたねぇって感じじゃあねえのか?」
「そうじゃな…」
サンタの声は、ため息にも似ていた。
「…ひょっとしたら、以降の修行はワシがやった方が良いのかも知れん。
これ以上、ルドルフに重荷を背負わせるような事は………」
「早々とモウロクしてんじゃねえよ、バカジジイが。」
不意に聞こえたその言葉に、ジョニーとサンタはハッと同時に向き直った。
包帯とガーゼに包まれた顔がモゴモゴと動き、大きな息が漏れる。
「気が付いたのか、ルドルフ!」
「大げさな言い方すんなポリーちゃん。」
「何だと!?」
喧嘩腰ながらも、ジョニーは嬉しそうに身を乗り出した。
にやりと笑って体を起こそうとするルドルフは、時おりかすかに顔をしかめる。
やはり、全身に及ぶダメージは相当のものらしい。
「無理するな、ルドルフよ。…寝たままでも話せるじゃろ?」
「…そうか?じゃあ、お言葉に甘えるとするか。」
ゆっくりと身を沈めながらも、ルドルフは目だけ動かして周囲を見回した。
「…俺のサングラスどこだ?」
「ああ。それなら…」
言いながら、ジョニーがごそごそと傍らの棚を探る。
取り出したのは、これまでと同じモデルの新品だった。
「前のやつは粉々に砕けちまったから。こいつを。」
「悪いな、手間かけて。」
不自由な腕を伸ばして差し出されたサングラスを掴み、ルドルフはゆっくりとした仕種で
それを装着した。いまだ傷の癒えない体ながら、それだけで不敵な表情が戻る。
「…ったく、ちょっと俺が寝ただけでグダグダネチネチ弱音吐きやがって。お前らそれでも
サンタクロースとベテランプレゼントかよ。体が動きゃあ、8発ずつぶん殴ってるとこだぜ?」
頭ごなしに罵られ、サンタとジョニーは思わず顔を見合わせた。
そんな2人をじろりと睨み、ルドルフはフンと鼻を鳴らす。
「おいジジイ。レモン搾った湯を一杯持って来い。いい加減、のど乾いてんだよ。」
「あ?…あ、ああ。ちょっと待っててくれ。」
「さっさと行けこのノロマ!引退したからってなまってんじゃねえぞコラ!」
「すまん。」
追い立てられるようにそそくさと立ち上がり、サンタはあわててキッチンへと向かった。
間もなく運ばれてきた無糖のレモネードをすすり、ルドルフは大きく息をついた。
「おー痛ててててて。体にも沁みるが、口の傷にも沁みやがるぜ。」
文句を言いながらもゆっくりと味わったルドルフの顔に、ようやく生気が戻る。
ホッとしたように同時に息をついたサンタとジョニーに、またも尖った声が飛んだ。
「…それで?クローネはもう寝たのか。」
「あ?ああ。すいぶん前にベッドに入ったよ。」
「結局、行かなかったんだな?」
「ああ。…納得したわけではないが、思い留まったらしいな。さっき、ワシなりに
説得しておいた。まあ、とりあえずは理解したと思うがな。」
「そうか。」
軽く頷いたルドルフは、少しのあいだ天井に目を向ける。
何かを考えているような重い沈黙に、サンタが口を挟んだ。
「…しかし、それでも完全に納得したわけではないかも知れん。なにぶん、あの子は
まだ子供じゃ。同じ事がまた起こらないという保証は、今はできんが……。」
「何が言いてえんだよ。」
「つまり…やはりさっきも言ったとおり、教育の担当はワシに交代した方がいいのでは
ないかと思うんじゃが。ここまで容赦ないのでは、お主の命の保証はできんかも……」
「オイ。」
ひときわ低い声で相手の言葉を遮り、ルドルフはもういちど鼻を鳴らす。
気圧されたサンタは、怪訝そうな表情で相手の言葉を待った。
「お前もずいぶんと老いぼれたな。子供の本質を見失うようじゃあ、サンタクロースの
名折れなんじゃねえのか?いい加減、寝言ばっか言ってると張っ倒すぞ?」
「子供の本質、じゃと?」
「そうだ。」
言いながら、ルドルフは左手に巻かれた包帯の端をちょっとつまむ。
「手加減ができねえのは、子供の特権みてえなもんだ。何事にも、全力でぶつかるって
意味でもな。だからこそ、俺も本気であいつと向き合ってんだよ。」
「しかし、限度があるじゃろう?いくら相手が子供とは言え…」
「うるせーよボケ。」
ぴしゃりと言い放ったルドルフの顔に、不意に笑みが浮かんだ。
「俺は今、けっこう機嫌がいいんだからな。てめえの寝言なんぞに用はねえ。」
「…何でそんな嬉しそうなんだよ。」
「分からねえか?」
怪訝そうに問いかけるジョニーに、ルドルフは笑顔のまま答える。
「遅かれ早かれ、こんな日が来るのは分かってた。あいつが自分の力を認識し、それを
自分の思う事に使おうとする日がな。俺なりに、覚悟は決めてたんだ。」
言いながら、その視線は窓の外の星空に向けられた。
「…俺がいちばん怖かったのは、あいつが自分の欲のために力を使おうとするって事だ。
欲しいものを手に入れたり、気に入らない奴を叩きのめしたりってな。だけどあいつは、
そんな事は考えもしなかった。ただ、虐げられた世界中の人間を救いたいと。それだけを
願って、せめて自分なりに何かできる事をやろうと…行動を起こそうとしたんだ。」
腫れ上がった顔に浮かぶ笑みは、どこか嬉しそうに月明かりに映える。
サンタとジョニーは、黙ってその横顔を見つめた。
「泣きそうになるほど嬉しかったぜ。あいつのまっすぐな気持ちがな。これなら、どんなに
痛い目にあっても耐えられると思った。それこそが、あいつの真剣な気持ちそのものって
事なんだからな。あいつは間違いなく、いいサンタクロースになれると確信した。」
「…それで、どんなにやられてもニコニコ笑いながら耐えてたのかよ。」
絞り出すような声で、ジョニーが問いかける。
向き直ったルドルフは、切れた口もとを歪めてにやりと笑った。
「そういうこった。」
「無茶をしおって……。」
深いため息をつきながら、サンタも呆れたように首を振る。
「そんなでは、命がいくつあっても足りんぞ?」
「そんなもん、最初っからくれてやってるさ。」
そう言いながら、ルドルフは大儀そうにベッドの上に身を起こした。
「……俺は、聖人サンタクロースの後継者を育ててるんだぜ。この世の中に、これほど
名誉な仕事はそうそうねえ。だからこそ、命がけで臨んでるんだ。あいつが一人前に
なるってんなら、骨の5本や6本くらい、くれてやるってなもんなんだよ。」

その言葉に、迷いの響きはなかった。
固く閉じた目を開き、サンタはもういちど深いため息をつく。
「…なるほど、な。それがお主の流儀というわけか。」
「そうだ。」
応えたルドルフは、サングラスに手を当ててかすかなずれを直した。
「だから、てめえは黙って見てろ。今さらてめえみてえな甘ちゃんジジイに俺の代わりが
務まるわけねえだろ?だったら、おとなしく引っ込んで雑巾でも縫ってろってんだよ。」
「その通りじゃな。いや、まったく。」
ようやく笑顔になったサンタは、ホッホッと髭を揺らしながら笑い声を上げた。
じっと聞いていたジョニーもまた、つり込まれて笑い出す。
「かなわねえなお前には。ホントかなわねえよ。」
「当然だろ?俺を誰だと思ってやがんだよ、このアホタレ共が!」
不遜な物言いに、笑い声はいっそう大きくなった。
かすかな明かりと月の光が、柔らかく交じり合って実内を照らす。
光は、らせん階段の上にまで薄く染み渡っていた。
その、すぐ脇の影の中で。
膝を抱いて座るクローネは、ひたすら声を殺して泣いていた。

何の涙なのかはわからない。
それでも、溢れてくる涙に意味があるのははっきりと分かる。
その頭上はるか、屋根の向こうの星空に。
ふたすじの流れ星が、寄り添うように流れて消えていった。
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数日後。
「いやー、いい天気だよなオイ。」
だいぶ包帯の取れたルドルフが、陽光を浴びながら上機嫌で電話に話しかける。

↓

↑

「……そ、そうですか?」
途切れ途切れの声で応えながら、百数10m真下のクローネは足を踏ん張り直した。
いい天気も何も、自分の周りには影しかない。
一歩一歩進むごとに、汗が流れた。
『ほれほれ。もたもたしてると晩飯に間に合わねえぞ。気合い入れて歩けー。』
「…りょ、了解ですー。頑張りまーす!!」
たどたどしい口調ながらも、クローネは迷いなく応える。
ゆっくり、一歩一歩。
自分に言い聞かせるように胸の中でつぶやきながら、足を踏み出す。
先生といっしょに、一歩一歩。
今は、それだけ。
午後の空に鳥が舞い、小さな影を北の大地に落として飛び去っていった。
================【続く】===============
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